剣道具師の思い出話「時節柄思うこと」
今回から剣道具について記していこうと思っておりましたが、この度の新型コロナウイルスで色々と思うことがありお話したいと思います。
この度の日本のみならず世界中が機能麻痺に陥っている事態は、私の70年の人生で初めての経験です。あらゆる活動が制約され、先の大戦を経験していない大多数の日本人には恐ろしく不自由で厳しい生活になっています。剣道の稽古ができなくなって2か月ほどになりましょうか。我々剣道具店も需要が殆どなく、お上(おかみ)からの要請もあって閉店状態が続いています。
この頃、修行中に親方から聞かされた話を思い出します。「竹刀について」の折にも記しましたが、戦後(昭和20年)しばらくGHQの命令で剣道、柔道が禁止された時期のことです。
戦後多くの国民は廃墟の中から立ち上がって動き出しました。敗戦前の稼業のあった人たちはゼロからといえども再開していったようです。しかし剣道具造りを生業にしていた者には、剣道廃止ということで目の前が真っ暗であったと言っていました。「これから、どうしようか」と絶望的な気持ちであったことは想像に難くありません。無条件降伏して、戦勝国の言うことには一切反駁できないのですから絶望感しかなかったそうです。このまま永久に剣道はできなくなるのではないかとも考えたようです。そうなれば全く違う職に就くしかないわけです。
生きていくために野球のグローブや硬球ボールの修理、学校の鉄棒の設営の仕事をもらって食いつないだそうです。目途の立たない将来に日々を過ごした不安、苦労、苦痛は大変なものだったと思います。親方の昔話、苦労話をなにか他人事のように当時は聞いていました。
今回の問題も大小の違いはあるものの、似たような事態ではないかと思っています。75年前のことを思えば今回のコロナウイルスの事態はまだまだマシではないかと思っています。
印象的な話を親方から聞いていますので、ひとつお話します。剣道十段の持田盛二先生が私の親方に仰った言葉です。
「高橋さん、当時は貴方も私も陸(おか)に上がった河童のようでしたなあ」
剣道家の最高峰の先生も戦勝国のお達しには従わざるを得なかったということです。剣道具屋も同様です。
ちなみに、持田先生のお嬢さんが千葉市に嫁がれていて、よく稲毛にあった「藤崎道場」に来られて稽古をつけられていたそうです。持田先生に関する話はそのほかにも親方から聞いています。またの機会に記したいと思います。
今回は剣道具の話ではなくなってしまい、すみません。